【オンデマンド・ラブ?愛の腹八分目】

2015.10.15

【オンデマンド・ラブ?愛の腹八分目】

一般に人は愛された分しか、愛せないといわれる。

たっぷりの愛を注いで周りの人と接したい気持ちは確かに崇高である。


しかしながら、それも程度問題で、相手のそのときの器量に合わせた、

【扱いこわさない程度のラブ】を注ぐことが大切だと最近知った。

それを、私は、【オンデマンド・ラブ】と造語して、呼ぶことにした。


なにも、母校の高校の先輩が、ソフト・オンデマンドの社長だからではない。

調節できない愛情の注ぎ方は危険だからだ。


まだ完成されていない、オチョコのような小さな相手の器に、

徳利いっぱいの愛情を注いでも、相手は愛がこぼれて、ずぶぬれになり、

混乱するだけだ。

器の八分目、いや、六分目にあわせて、はじめて相手は、【愛】を安心して、

【受け取ることができる】のだ。

考えても見て欲しい、いくら愛に溢れようとも、相手が安心して受け取れず、

怖がっていては、コミュニケーションが成り立ちようもない。

相手の力量をきちんと推し量れること。

そして、

その相手を扱い壊さないことを一般に【強さ】という。


【盃は絶対! 『兄弟盃』の今昔話・・・】

2015.09.03

合理的かつ論理癖があるのに、わりと封建的なので、

そんな小話。


今は任侠の世界しか、【兄弟盃】はありませんが、

昔、明治ごろまでは、堅気(かたぎ)にも、

兄弟盃があったそうです。相互扶助のためですね。

結婚式の【夫婦盃】のように、

三三九度の要領で飲み干します。
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◆1度目の盃で己の覚悟を確認。

◆2度目は相手の覚悟を確認。

◆最後三度目は、神明(かみさま)に誓って、確認。

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都合、3口3杯で三三九度なわけですね。

この制度は前近代的にも見えますが、

【無縁社会】の絆が崩壊した現代日本に重く、

のしかかる深いテーマです。


封建的でも、人間って、束縛されたほうが、
本当に自由になれるのかも知れません。

なにからも自由って、結構孤独だし、

そんな状況はありえません。

いつもしがらみや、拘束膠着という、

「業」に縛られてもしょうがないのではと思えるのです。


村はずれの庵に住む、世捨て人のインテリ狂人は、村も家族も守れません。

人間は社会的な生き物です。


付け焼刃の【知識】より、【盃】は絶対なのかもしれません。

私にも、もう【盃】の仲がいたりして・・・


【綱渡りする赤の他人が落ちそうだとハラハラする僕らの愛は世界を救う!】

2015.08.28


【綱渡りの感情移入】

綱渡りの映像を見ていると、わたっている人が落ちないかなとハラハラする。

その人とは、赤の他人であり、たとえ、渡り損ねて、奈落の底に落ちて、

お亡くなりになっても、自分自身は痛くもかゆくもないのにも、かかわらず、である。

これって、【愛】なんだろうか?

冷たい人もいるんだろうな、なんの感情もわかない人。

警備員やビルメンなどには向いているのでしょうが。


【冷たい心】

とはいえ、冷たい心が【時には】必要なときもある。

それは、必要だから求められるのであって、

もともと、温かい心があるから、断れるものでもないのかもしれない。


たとえば、訪問販売の泣き落としを全部受け入れてしまったら、

お金がいくらあっても足りないし、捨て猫をいくら拾っても、

不妊手術の寄付をした方が、実は【ネコ社会】のためである、

冷静に考えると。


【愛のオーラと男伊達】

そういう、合理的な判断の余地が狂わされる、心の独楽が狂わされる、

凄みが多分、オカルト的な「愛のオーラ」の世界なのだろう。

もう、それは、説明できない世界で、盲目的に行動するということになろう。

問題は、理性で(この場合は冷たさ)制御して、【行動】することにある。

正しい行動かどうかは、歴史が判断するのだろうが、

理性で行動し、愛を結果で示すのが、もっとも、【男伊達】である。

多くの優れた価値とは、およそ、太古の昔から、

そういった【いなせ】ではあるまいか。



【大仁田劇場のいう、『何らかのアクション』】とはなにか?

2015.08.27

【大仁田は詩人である】

・プロレスラー大仁田厚は詩人である。

まずはじめに言う。プロレスラー、大仁田厚は詩人である。

なぜなら、テレビ朝日、ワールドプロレスリングの番組の、

いわゆる【大仁田劇場】の中で、

【1999年プロレスが何らかのアクションをおこさにゃ!】

といってしまう内容が、すでにポエムである。

大仁田厚の人生は自らをポエム化する作業に他ならない。

それがゆえ、大仁田劇場含め、大仁田の言動自体、

正直何をめざしているのか、わからない人も多いのでは、

あるまいか、それは、その行動自体が、ポエムであり、

現代詩であり、抽象(アブストラクト)だからである。


・詩人の言葉は血の叫び

とはいえ、詩人の叫びは、血の叫びである。

かつて、田中角栄は、私の声は25万人の新潟三区の有権者の、

血の叫びだとうそぶいたが、

大仁田厚の叫びは誰の代弁か?

それは、誰にもわからない、しかし、かれの「ファイアー」

も彼の代表作、スーパファミコンソフト、大仁田厚FMVで

明らかなように、ゲームクリア後に現れる、


【己の敵は己じゃ】


の言葉が、全てを物語っているといえよう。

大仁田厚の血の叫びは、生きとしいける、意識あるもの(それがたとえ、ねずみでも)

に届いているといえよう。


【生きて恥をかき、生きて涙を流す】

・大仁田はまぬけである

しかし処世術としては、【己の敵は己じゃ】などと、真顔で会社で言ったら、
浮き上がること、この上ない。
まことに、大仁田厚は間抜けである。

その間抜けさをひきうけて、世間にあらわにする、つまり精神のヌード表現をする大仁田厚は、実は、ストリッパーであり、インテリであり、利口であり、バカでもあるのだと思う。


・大仁田がすきでも人には言えない

そんな、素直に生きている大仁田厚のことが、好きになってしまったとしたら、大変である。なんか、大仁田がすきってだけで、恥ずかしい。マジ、ハズい。後ろめたさというか、
やましさがあるはずだ。ただその、破局点をぶち破ると、違う視点が見えてくる。

それが、日常の世間のおりに隠されてしまったなにかなのだ。

だから、大仁田厚はすがすがしい。


【生きていく】

・『何らかのアクション』の先にあるもの

さあ、【何らかのアクション】とはなんなのであろうか。

答えは、単純で、【何らか】とは、なんでもいいのである。

行動すること、何かをすること、一つの働きかけをすることが、

プロレスに限らず、闘魂を燃やして、【闘う】ことだ。

猪木も言った、【出る前に負けること考えるバカいるかよ】と。

問題は、勝負の場、すなわち、【行動】することなのだ。

それが、どんなに、わずらわしくても、

自分の確率が高まることを信じるしかない。

その後の状況がどうなっても。

大仁田厚の何らかのアクションは、
男としての(いやさ、女性としても、そうだ)価値を高めるための、
必須条件なのだ。


【スプリンターの働き方】

2015.08.26

【筋肉が疲れるタイプ】

・スプリンターなので距離が持たない

基本的に私は、スプリンター(短距離走者)である。

何か作業をすると、すぐに、飽きるし、持続力が続かない。

一般に、会社勤めは、指揮命令系統のもとで、人の言うことをきいて動くわけだから、
時に、指示命令に飽きている、辟易とするときもある。

・持続力がないのはわるいことではない

とはいえ、そうやって持続力がないのが、あながち悪いともいえない。

一瞬たりとも集中力がないわけではないので、何か0から物事を発想し、
生み出すことや、ツボにはまったときは、無心になって働く。
そのときの熱心さは、一般の人とは、ちょっと違った熱気をおびている。


・長距離ランナーは?

一方、長距離ランナーはどうだろう。爆発的な発想力や、瞬発力はないが、
粘りづよく、ジリジリと進む感じであろうか。

まさに競馬で言う、ラストスパートの違いで、
一瞬のラストスパートをする【カミソリの切れ味】

(かみそりでもT字のではない、昔の刀のやつ)なのか、

力でねじ伏せる【ナタの切れ味】なのか、その違いといえるだろう。

私の場合は、明らかに【カミソリの切れ味】なので、使いどころをよく考える必要があるし、

休み休み、だましだまし、働く必要が、どうもありそうなのである。


【にじみを理解する】

・あることには持続したのに、ほかはできないと言うことはありえる


そのカミソリの切れ味もどうやら、対象によって発揮の仕方が違う。

いわゆる、【にじみ】がある。この場合の【にじみ】とは、課題によって、

問題の濃淡が違うということだ。もちろんそのときの体調にもよるし、

この前まで、熱心だったことをやらなくなることもあるし、

再び、ほこりをかぶった課題を、やることもある。それ自体が、

許される生活スタイルを選んでいる以上、

悪いことだとは思わない。一つのタイプに過ぎないのだ。

・そのときしたいことをする醍醐味

もっているエンジンが抜群でも、それを制御するのはあくまでドライバーだ。

興味がにじむタイプの車(馬でもいいが)のドライバー(騎手)は、
一般的な勤め人のイメージを当てはめたら、劣後してしまっている、
というオブセッション(強迫観念)をとりはらわなければならない。

そういう人がいてもいい。

素直ににじみと付き合えれば、その人は伸びる。


【ピントをあわせる】

・いつもホームランではない。

にじみと向き合うことは、いつも、ピントが合うわけではない。

一般の会社勤めは、ペースーメーカーがいるマラソンのようなものでどう走ればよいか、

判断を先に示してくれる。

そのペース判断、状況判断から、まず自分でしないといけない大変さがある。

うまく、アジャスト(調整)できないと、三振の日もある。


ただ、自分を整備することで、会心の当たりに繋がる確率を高めていくことである。


・何らかのリスクを減らすことが出来たのかが肝心

調子が悪いときは悪いなりに何かをするしかなく、

少なくとも、一つのプラスに対する働きかけはしたわけだから、

その体験は素直に喜んで、次のステップに進んでいくしかない。

にじみあるなかで、コツコツ一つの働きかけを積み重ねていくしかない。


圧倒的な事実だが、若い人にも知ってほしい、


【結果】とは、渇望する、どうしても欲しいときには得られなくて、

後になって、コツコツ努力したら、あ?結局、手に入れられるときは、

こんなにあっけないものだったのだ?という風に手に入るものなのである。


【たりないのはデジタルなんだ-人生は確率のスポーツ】

2015.08.25


『デジタルが足りないから、悩む』


人は悩む。人間関係、カネ、欲。

それら全ては、デジタルに割り切って、


[相手は変えられない、一流は自分を変える]


と思い込んでしまえば、悩む余地は、ほぼない。

それでも、悩んでしまうのは、

人間の弱さではなく、もどかしさと葛藤の中で、

死ぬまで生きていくしかない人間の『業』というものなのだろう。

しかしながら、われわれには、生活がある。

無理やりにでも、デジタルに割り切りたいものである。


『ありのまま、おもうがままの心』


そのときに役に立つのは、自分の『ありのままの心』

を認めることだと思う。

悔しくて、うれしくて、つらくて、楽しくて、そのさまざまな感情を、

力の限り、『そのまま』受け止めることだと思う。

受け止めた後、「だから今は、デジタルにわりきっていよう!」

とはじめて、思えるのではないか。

怒りの感情は、本心の上にフタをしたものだという。

怒りからはプラスの投げかけは生まれない。

せめて、デジタルに割り切って、笑って働きたいものである。


『それでもデジタルではありえない』

それでも、人間である以上、完全なデジタル処理をする人間はありえないのである。

いつかその打算に、いつかその欲得に、いつかその思惑に、

純粋な自分の気持ちと向き合う日が来る。

そのとき、どれだけ『デジタル』にわりきって、不愉快を乗り越え、日々、

何らかの行動をしたか?その絶対量が、好循環の結果であり、

そのときはじめて、

純粋な自分の心と向き合うことを、運命が許すのだろう。

好循環を作ること、野球で言えば、出塁率を上げること、

人生は確率のスポーツだ。

成功の確率をやるだけやって高めて、だめなら、また、次に向かえばいい。


【人事の話。パラメータがありすぎて・・・そのときあなたは何を選ぶのか?】

2015.06.12


【人事の話。パラメータがありすぎて・・・そのときあなたは何を選ぶのか?】

今は、コーエー・テクモ・ゲームスという名前だが、

かつては、「光栄」という名前のゲームソフトメーカーが横浜にあっ

(本社は、今もあるか・・・)

この「光栄」歴史シュミレーションゲームを得意としていて、

「信長の野望」や「三国志」といった主力商品から、

リコエイションゲームなる、シュミレーション+RPGという新ジャンル
を開拓する、

元気のあるメーカーだった(特に、太閤立志伝と大航海時代はオスス
メ!)

ちなみに私の「光栄」のベストソフトは難しいが「リーディングカン
パニー」かな。

VTR戦争のシュミレーションゲームです。自陣営をベータMAXにして、

超不利な状況の中、苦難の果てに、
VHSに打ち勝つ瞬間は、もう、最高の「カイカン(薬師丸ひろ子風)
」です!


さて本題。リーディングカンパニーも社内経営するゲームですが、

光栄ゲームでは、パラメータが多用される。特に、「信長の野望」や
「三国志」などでは、

武将ごとに能力値が細かく設定されている。

たとえば、豊臣秀吉はいつでも政治力がMAXだし、上杉謙信は戦の強
さがMAX。

真田幸村も毎回、「日の本一の兵」だ。はかりごとなら、毛利元就が
最強クラス。

一方、三国志でも事情は同じ、劉備の魅力が最強レベルなら、

諸葛亮孔明の知力は常に最強。個人的武勇はやはり呂布が一番
(義理の低さも一番ですが)

と、このように才能って奴が、見事に反映されているわけですが、

これは、あくまでゲームの話。

ここで、社内経営に立ち返ってみよう(別に家庭経営や学校経営だっ
ていいけど)

経営や運営に本当に必要な能力って何なんだろう?


私はここで一つの話を思い出した。

ヤマト運輸の2代目社長、故小倉昌男さんの発言である。

小倉氏によれば、

「成果は、たまたま前任者の種まきによるかも知れず、厳密に測定す
ることは、

不可能。よって、仕事ができる、すなわち有能であるということが、

会社として人を雇うときの基準として絶対に正しいのか疑問に思うよ
うになった」

と、このように、小倉氏は述べている。

また、

「ウソをついた管理職には降格などの罰を与えた。成果主義は測定が
難しい。
それであれば、誠実であるとか、面倒見がいいといった、別の要素、
すなわち、人格、人柄で判断したほうがいい」

小倉氏の理論によればよい社風は、良い人柄を上役に置き、自然と浸
透するというのが、

持論だったのである。

ここまで、小倉氏の考えをみてきたが、やはり、私も考えるところが 

あった。

いままで、知力や要領のよさや反応のよさを有能とみなして、それが

「市場価値」なのだと思っていた。

しかし、「組織」というものは、どうやら、違う力学で動くもののよ
うだ。

組織は1+1は2にも、10にも、0にも、マイナスにもなる。

それは人間の集合体だからだ。

人間をまとめ、ひきつける力、人を動かす力とは、最後は、

「公平無私」

この一言に尽きるのではないか。

経営学の巨人、ピーター・ドラッカーも、

「真摯」であることが、マネージャーの条件であり、

「紳士」の条件であるともいう。

ここでいう「真摯」さとは「integrity」

「自らの信念に対する誠実さ」を言う。

「自分を信じて、昨日までの自分を乗り越えること」

そして、

「自分を映し出す心の中の鏡にただ一点の曇りもないこと」

それが、何はなくとも最初に伸ばしたい「パラメータ」なのではない
か。

頭のよしあしなんて、くそくらえだ!

顔のよしあしなんて、くそくらえだ!

本当に大切なことは、

誰に対しても、素直に、誠実に、真面目に取り組むことの出来る心だ

21世紀の人類の使命は、われわれが、

大量製造消費廃棄社会から、誠実さと素直さを取り戻すことだ。


「たけし軍団は何と戦う軍団なのか、本気で考えてみた」

2015.03.21

「たけし軍団は何と戦う軍団なのか、本気で考えてみた」


「なぜ軍団なのか」

軍団という言葉から思いつく言葉は、戦いである。

映画、狂気の迷作、

「パットン大戦車軍団」

は言うに及ばず、「軍団」とは何かとたたかうことを宿命付けられた、組織である。

それにしても、たけし軍団である。

なぜ、ビートたけしの弟子たちが、軍団でなければ、ならなかったのか。

ここで、軍団の定義を紐解いてみよう。

1 軍隊編制の単位の一。歩兵2個師団以上の編制で、軍と師団との中間の規模のもの。

2 律令制で諸国に常置された軍事組織。正丁の3分の1が徴発され、軍毅が統率した。

一軍団は約1000人、一国に二、三軍団が置かれた。

延暦11年(792)廃止、代わりに健児(こんでい)が設置された。

3 (比喩的に)実力のある人を中心にした集団。または、共通の目的をもつ人々。


「軍団(ぐんだん、英: corps, army corps)は、陸軍の編成上の単位のひとつである」


「派生して、ビートたけし率いるたけし軍団、石原プロモーション所属俳優に対しての石原軍団、

日光猿軍団、オスカー美女軍団のように、影響力の強い人物の元に結束した集団に対しても用いられる」


なるほど、軍事上でなくとも、「軍団」の表記をすることはあながちおかしなことでも、

ないそうである。サルでも軍団だし。


ただ、共通して言えるのは、カリスマリーダーの元に集まった人々(およびサル)であるということだ。

では、石原軍団やオスカーはいったん脇においておいて、たけし軍団の場合、

軍団を軍団たらしめるものは何かをかんがえたい。


はたして、彼らは何と戦っているのか?


「自分の中のビートたけし」


たけし軍団のカリスマリーダー、それは、もちろん、ビートたけしである。

ビートたけしがいなければ、たけし軍団は生まれなかったであろう。


しかし、もともと、一番弟子のそのまんま東やガダルカナル・タカもまだ若く、

ある意味、アイドル的な扱いも受けていた時期もあるのに、

なぜ、彼らは、スーパージョッキーなどで、

自らの体を酷使する方向へ向かったのか。

なぜ、彼らは、フンバルマンズ、ガンバルマンズでなければ、

ならなかったのか?


もし、答えをみつけるとするならば、彼ら軍団員のガンバリ、フンバリは、


「自分の中のビートたけしを乗り越える戦い」


といえるだろう。たけし軍団の軍団とは、


「ビートたけしを乗り越えるための軍団」なのだ。


それは一種の修行であり、ある意味、密教、山伏、修験道的といおうか、

彼らにとってビートたけしとは、苦行の末、乗り越える存在なのである。


「決して勝てない戦いを挑みつづける軍団」



しかし、ながら皮肉なことに、けっして、軍団員はビートたけしを越えることはない。

越えてしまうということは、軍団員という枠を越えてしまうということであり、

ビートたけしという偶像は、いかに彼らが、苦行しようとも、越えられない、

蜃気楼なのだ。


この仕組みは、新宗教や、裏社会の組織、または、政治の現場では頻繁に現れる現象である。

「ビートたけし」の幻から逃れようと、

政治の世界に逃げようとした、

東国原英夫は確かに、道化には違いないが、

彼としては、彼なりの真剣な、坂本龍馬ばりの


「脱藩」(あるいは脱会信者か)だったのである。


いかに組織というものが、ぶよぶよしたもので、個人を逃れ得ないほど、

からめとってしまうという強力さを、

わかっていただけたであろうか。


その皮肉は、いかにも、詩学的であり、


一本道に大金かけて橋を架け、その先には道はない・・・といった、


いかにも、考えさせられる、苦行の一本道、それが、

「軍団」である。


しかし、こうみてくると、

石原もオスカーもたけしと同じプロットの「軍団」なわけだ。


一方、サルについては、サルの気持ちは、サルにしかわからないので、おいておくとして、


人間の「軍団」に近いのは、


マンガ「男塾」ではないだろうか。


かの塾の目的は、ただひたすらに「男」を磨くことである。


10年以上在学する塾生もおり、(江戸川先輩、押忍!)


まことに志が純粋である。


そう純粋に理想に燃えるのは、ある意味で、マンガであり、


ある組織が、その理想をかなえてくれるということは、

まずないのである。男塾ですら、死屍累々なのだから・・・


究極、「軍団」も行き着く果てには、オウム化である。


軍団の教祖、ビートたけしも、

「学生運動は新宗教」

といっていたが、


何のことはない、自分も軍団という宗教の主であり、

自分こそが、還暦越えても学生運動を実践しているともいえるのである。


結局、墓穴掘るから、人の悪口は、たけしも、

有吉もマツコもやめたほうがいいね。

たとえ、芸風でも。



高齢者への愛は公衆電話の数に比例する?公衆電話復活論!?

2015.03.20

高齢者への愛は公衆電話の数に比例する?公衆電話復活論!?


「本質的に多くの高齢者にスマホが必要なのか?」

スマホは便利です。情報量が電話の枠を超えているからです。

スマホでデザリングして、WIFIにつなげたタブレット、

これも便利です。


ところが、町を歩けば4,5人にひとりはシニアの時代、
(少なくともわが町ではそうです)

スマホを使いこなす高齢者が爆発的に増えることはなく、

それとは逆に、公衆電話が、町から急激に消えました。


公衆電話難民となった老人たちは、新宗教のように、

シニア・スマホ、格安スマホの習熟を家人やメディアなど、取り巻きから、

要求されます。

シニア用ガラケーだって、ロクロク使いこなせてないうちに、

今度は、スマホが使わぬもの人にあらずといった調子で、

シニア向け、スマホ講座などが、開講され、

習熟できなければいけないような状況に、シニアは追い込まれました。

しかし、私は、声を大にしていいたい。

『シニアよ! ガラケーもできないのに、出来ないスマホは使えなくていい!』


「そもそも、公衆電話は命の綱。無くした事がおかしい」

大震災でわれわれが学んだことは、ケイタイが繋がらないことでした。

そう、有事には、日ごろ便利なスマホも役には立たないのです。

そんなときのためにも、公衆電話です。

公衆電話は、シニアの希望、いやさ、われわれの希望です。


公衆電話は利潤を求めるものではなく、

危機管理や、セーフティネット、あるいは福祉に関わるものなのです。

そう、ここに、「公衆電話復活論」を高々と、謳い上げたいと思います。

公衆電話は再び、すこやかによみがえらなければなりません。

普段、公衆電話はケイタイ難民の情報弱者の奥様やシニアが使う。

まかりまちがって、テレフォンクラブが復権するやもしれません。

もちろん、子どもの携帯電話など、日ごろ必要ありません。

公衆電話を使わせましょう。ケイタイ紛失の心配もないわけですから、

親御さんとしても一石二鳥です。

そして、有事には、強力な連絡網として機能してもらいましょう。

そのためには、NTTから、公衆電話を奪還せねばなりません。

公衆電話は、一度、国有化し、スキーム(仕組み)を簡素化し、

事業体をPFI(Private Finance Initiative)で行いたいです。

現在のNTTは硬直化しており、とても、コスト感覚をもって、
リスクに取り組もうといってもできるはずもなく、油断なりません。

ここは、若い力を抜擢し、新組織体で、公衆電話の復権を図りたいところです。


「公衆電話よ永遠に」

このように、公衆電話は、多くの社会的使命を帯びています。

その対象は、社会的弱者にこそ向けられているといえるでしょう。

そう、その地にある、公衆電話こそが、その社会がもつ愛の象徴であり、

公衆電話の数はその地域、組織、そして、日本における、愛の総和なのです。

公衆電話を抹殺する、殺伐とした社会において、

おぞましい事件が頻発しています。

それも一つの社会病理なのですが、

公衆電話で、つながる社会、「結(ゆい)」のある社会を作ることは、

まだまだ可能です。PFIによって、運用コストを下げ、
弾力的に運用できるようになれば、

自宅の電話はなくとも、近くの公衆電話で十分という、
あらたなライフスタイルも考えられます。

そう、

公衆電話は21世紀の日本の希望です!

以下のような先進事例もあります!


誠実な告白よりも上質の嘘を -ジム・キャリーのトゥルーマンショー的世界と僕ら-

2015.03.01

誠実な告白よりも上質の嘘を -ジム・キャリーのトゥルーマンショー的世界と僕ら-


「全部、芝居だったら・・・・・・」

1998年公開のジム・キャリー主演、「トゥルーマン・ショー」という映画があります。

これは、ジム・キャリー演じる会社員の主人公が、自分の今までと、現在の人生が、
全て役者に囲まれて、過ごしていたという設定で、上司も同僚も家族も、全部、

「芝居」ということを演じた「芝居」であります。

なにやら、メタ認知が鍛えられそうな設定ですが、

現在の全世界で、この「芝居の中の生活」がある程度成立していると仮定し、

「誠実な告白は、上質な嘘に敗北してしまうのか」を検証してみたいと思います。


「まず誠実な告白とは何か」


第一に、誠実な告白とは何かを定義づけないといけません。


誠実とは、嘘偽りなく、公平無視で、利他的で、慈愛にあふれている善の心。

とここでは、定義したいとおもいます。

そして、告白とは何かですが、人を信じて、自分の内面の善を伝え、お互いに、

分かり合うことと、いえると思います。

恋愛や、家族のやり取りの中でも、これは、
真心のやり取りだなと感じることもあるでしょう。

それが、誠実な告白といえます。いわば、心を込めた、手編みのマフラーですね。

ある意味、たいがいは、執着心や独占欲も詰まっていますが。


「上質な嘘とは何か」

一方で、上質な嘘とは何かですが、ある空間の中に、統一感が存在し、まとまった、

印象のカタマリをその場に与えれば、うそは成立したといえます。

まとまっているほど、上質な嘘といえます。

一般に、物語とは、ウソです。

あらゆる、小説、戯曲、芝居、映画、ゲームなど、
フィクションはもちろんのこと、ノンフィクションを標榜するものさえ、
その様式からして、ある種のフィクション性が存在します。
そのことに自覚的なノンフィクションの作り手は、
確かに気高いですが、金持ちにはなれません。

その点で、ウソは人為的に作り出すものであり、また人類の業として、

作り作られることを必要としている節があります。



「誠実な告白は、上質なウソに敗北したのか?」


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問題は、現代社会に、誠実な告白は通用しなくなっているかという点です。

ある意味、アメリカにおいては、WWEのプロレスや、ジェリースプリンガーショウ的な、

痴話げんか。また、アメアイ(アメリカン・アイドル)
のようなシリアスなオーディション番組においてさえ、

どこか、芝居くささが、抜けません。マドンナやマリリン・モンローを生んだ国といいましょうか、欧州のコンテンツともニュアンスが違いますし、いかにもアメリカ的といえます。


ところが、この日本でも、そのアメリカのフォーマットがテレビに限らず、多くのコンテンツ産業で当然のようにコピーされてしまう文化があり、

日本的に「国風化・民族的同化」してしまうとはいえ、

大仁田劇場や、ハッスルのプロレス、または、同じく痴話げんかの
「愛する二人別れる二人」など、

日本の中でアメリカ的ウソが広く膾炙しているといえましょう。

この傾向は、インターネットの時代、情報化の波はアメリカ化の波ともいえます。

デブとマッチョの国といえばそれまでですが、独善的な、ごり押しが、アッピールの強さと相まって、誠実な告白を押しつぶしているともいえます。

それはまた、目に見える文化しか信じられなくなった、
多くの現代人が選んだ道なのかもしれません。

天に恥じない、人をとがめず、天を相手にせよ。

などと言った、儒教的道徳観。内面の志を重視するものは消え去り、

相手の学歴、年収、暮らし向き、乗ってる車、クレジットカードの格。

そういったもので、短絡的かつデジタルに人間の価値を、

計ってしまう時代なのかもしれません。


無論、誠実さと上質な美しさの美はどちらも勝ちなのやも知れません。

しかし、私見ですが、あらゆる価値が相対化され、

人に迷惑を掛けなければ、何してもいいの、ミーイズムから脱却する時期だとおもいます。

良識ある日本人は、カント的な、天の星と道徳律を内に秘め、

たやすくぶれない体軸を持っていく。

その方が、これからの世界の諸問題に先進国の一員として、

日本人が果たす役割は増えていくと思います。