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【論文】【日本精神と少年保護に見る現代社会の人間の人格的成熟の問題についての一考察】

【日本精神と少年保護に見る現代社会の人間の人格的成熟の問題についての一考察】             有限会社フロンタル 宮川学。 あなた様は何ですか? あなたは何のために生きているのですか? ------------------- 日本精神と少年保護。 この本の中で、平田勲検察官に尋ねた転向学生の悩みはたった二つだった。 しかし、この問いこそが、今、日本いや、ある程度の先進国の青少年からあるいは、 中高年に至っても重大な問題になっていることは、間違いないのだ。 魚類は何のために生きているのか考えるだろうか? 自分は何の鰯であるかを考えるであろうか。 大脳構造を持つものは意識を持つ。 故中田力教授のことばである。 我々人間は、大脳を持つ。 だから意識がある。 自分が自分であるという意識である。 では、大脳構造があるネズミは、どうだろう。 自分はいかなるネズミであるかを自問自答しているであろうか。 自分はある特別な識別されたねずみであるとは、考えて行動していていない。 考えながら行動していたら、自然界の中で、淘汰されてしまう。 より強力な捕食者に捕食されてしまう。 なぜ、人間だけ、自分は何者かを考えるのか。 自分は何者か。自分は何のために生まれてきたのか。 そういうことを考えるのは、自然界で人間だけなのだ。 チンパンジーもヒグマも餌を取れるようになれば、 自然と、母親は、子供のそばから、離れていく。 子どもが自分で、餌を取れるようになるからだ。 しかし、人間はそうではない。 自立して、えさを取れるまでに成熟するほどに、驚くべきほど、時間のかかる動物なのである。 その人間の中に、なぜ生きているのか。自分とは何かと考える個体が現れる。 動物にそもそもその理由を考える必要すらないのに。 ただ単に、ほ乳類として、親のテリトリーから離れて、えさを取れるようになればいいだけなのに。 なぜ、自分と何か。自分はなぜ生きているのかと考える若者が絶えることがないのだろう。 子どもは本来、生まれてから、無条件で生きていることを保証されて育つ。 それが動物としての自然な姿である。 見捨てられることはないことの確信。 このことを幼児期に実感しえない子どもは、 失敗することを極度に恐怖に思うようになる。 失敗すれば、親に捨てられてしまうかもしれないと考えるからだ。 いや、考えるという年齢ではない。おそらく3歳未満の乳幼児の時点で、すでにそのことを刷り込まれる。 そうすると、その子供は、自分は無条件では生きてはいけない。 何か、理由がなければ生きてはいけない存在なのではないかと、 自分について、考えるようになる。 いろんな失敗をしながらその子の識別されたその子らしさというものを、 育むときに挫折を生むことになる。 自分が何か親の期待にこたえなければ生きてはいけない。 社会的に認められた価値にこたえなければ、生きてはいけない存在ではないかと考えるようになる。 その時の高い社会的な成功水準と実際の自分の無力感が、新たな挫折を生む。 その原体験は親から幼児期の理由を求められた子ども像である。 しかし実際の識別されたその子らしさは異なるものである。 その時の位相のずれが、病理となって現れる。 則ち。 自分とは何か。 自分は何のために生まれてきたのかという問いである。 青年期の成熟した青年の答えであれば、 自分とは何かと答えれば、失敗も成功も、不安も満足も、 すべて引き受けて進む自分と答えるであろう。 しかし、平田勲検察官に問うた若者の嘆きはそのような成熟されたものではない。 自分自身が、どんな時も自分自身を引き受けるということができないときの放水路、 ストレスの放電口として、 平田勲という成熟した大人に対し、 あなた様は何者ですか。 あなたは何のために生きているのですか。 という、その赤化青年の成育歴則ち、 親の期待した人生と、自分の人生を引き受けてきた自負とのずれの間に、 若者自身大いに悩み、 その答えのあるはずもない答えを答えてくれそうな手ごたえを持つ平田勲検察官に、 その問いを問うたという、発達課題の未成熟という点における、青年期の課題をそのまま、提示している、 現代的な問題である。この問題は、現代社会において何ら変わらず、厳然と存在しており、 若者を取り巻く社会問題の根幹をなすものである。 対人関係の科学として、この発達課題の未成熟に対し、 現代社会においては、その親もまた、未成熟な発達段階。 則ち養育気にふさわしくない状態で、親になり、また、親子ともども現代的な発達課題の未成熟という問題に関し、 親子の共依存関係を容易に形成するリスク要因となっていることを現代的な社会病理として認めざるを得ない。 その中で、すでに、発達を拒むことで、自分を探すという、決して見つかることのない自分という蜃気楼を求め続ける、 現代的な社会病理に対して、対人関係の科学が何をできるかを、考察していくこととする。 平田勲検察官に転向学生が、自我の発達課題を問うて、すでに百年近くが経つ。 しかし、その課題を克服せず社会に社会人として、若者が毎年人材として、 社会に現れる以上、この問題はもはや看過できないまったなしの現代の社会病理画」続いていることを。 国立国会図書館に所蔵されている本書は、その対人関係の問題、成熟の問題はいかに難しいのかと点を、 約百年間証明した何よりの証拠と言えよう。 あなた様は何ですか。 あなたは何のために生きているのですか。 裏を返せば、自分とは何か。 自分は何のために生まれてきたのか。 ということである。 人間は社会的動物である。 人間は人間関係の中でしか、 その存在を確認しえない。 しかし、対人関係の科学の中で、 その自己の存在に疑問符が付く個体はむしろ、動物行動学的におかしな存在である。 本来、動物行動学的に、個体同士協力し合う互恵的利他主義が一般的であり、 人のために生きていると言えない個体は、互恵的利他主義の下では排除される個体といっていもいい。 しかし、現代社会の文明化は、自分が特別に識別された何か運命的な使命を持っているという利己的で、病的な、 存在意義についての疑問を持っても、文明を維持できるほどに、高度に文明化されていった。 また、20世紀という世紀は、利己的であることが、よりテクノロジーや利便さを推進するとされてきた世紀であり、 21世紀に入るまで、組織人として、自分が何かわからない、自分が何のために生きているかわからないという、 ある意味、利己的な思考迂遠の回路に取り込まれた個体も、組織の中に包摂する余裕とシステムが20世紀の、 大量生産大量消費の時代であった。 その国の人々の暮らし向きを良くすることが、その国の第一目標であったし、組織に逆らわないで、忠誠を誓う以上、 自分とは何かという問いを持つ個体自体が、組織や共同体を食い荒らすリスクは、一部の反社会的組織をのぞいてはなかった。 しかし、21世紀、世界の資源は限りを見せ、環境の維持がそのままの20世紀型のシステム運営では不可能になって来ると、 組織の中に包摂されていた、自分とは何か、何のために生きているのかと考える発達課題において未成熟な個が、あくまで、 自己責任という、突然、自己決定を求められる、21世紀型の個人から始まる身の丈システム社会の中に突如放り込まれることになる。 この20世紀的組織と21世紀的価値観の過渡期に、象徴的に置かれている存在が、現代の日本の若者像である。 正確に言えば、団塊の世代から団塊ジュニア、ポスト団塊ジュニアに始まり、デジタルネイディブと呼ばれる世代まで、 その問題はむしろ、純粋化されていった。 対人関係の科学という見地から言えば、ヤマアラシのジレンマ。お互いに近づいて、温まりたいのに、 お互いを自分を守るためのプライドというバリアで囲っているために、 お互いある程度の距離から決して近づけず、お互いが、温まり得ないという、現代的なジレンマと直面しているのは、 現代のデジタルネイティブ平成生まれ以降の若者たちである。 彼らは、決して、優しくない存在ではない。むしろ、とても、丁寧で、腰が低く、礼儀正しい。 突っ張って反抗するよりも、一般に従順な存在である。 しかしながら、彼ら自身が、そのとき、彼らが、ある程度突っ込んで、分かち合わないといけないテーマについては、 途端に、委縮してしまう。 すなわち、誰かがやらなければいけない、やらなければいけない嫌なことを皆でやるという、 社会を分かち合うという概念についてはとたんに委縮してしまう。 自分の気持ちよく過ごせる範疇から、新たにリスクを背負って、分かち合うコミュニティをともに築くということに、 現代の若者はとても消極的である。 自分が気分よく過ごせる分にはいいけれど、 自分とは何か? 個人の識別性を堂々と主張しなければ、その場が収められないような状況に立たされると彼らはとたんに委縮してしまう。 自分の得手とはなにか。自分の強み、自分が自分らしくある理由ということについて、直面化を求められる場面を、 おおくの 若者たちが避ける。それは進路等の自己決定においても、同様である。 附和というアイデンティティはそれ時代が強力な時代の対症療法の処方せんのように若者たちに与えられる。 それは、一種の幻覚的な作用をもたらす。 仲間でありながら、真に自己をさらけ出すこと決してできないという。 強い統率を求めない姿である。 お互いの個人の権利への配慮と無遠慮な扱いがないことが最大のテーマとなり、 そのためには、そのときの個人間のコミュニティは極めて、他者との距離を以上に気にしたものか、 あるいは、他者の実像を如何に見なかったことにするかという点に考慮されながら、関係性が成立されることになる。 その対人関係は、きわめて実感が希薄な空間である。 21世紀は、個人から始まり、掛け算で社会を作っていく積分的な社会でなければ、互恵的利他主義を満たすことが難しい。 多くの救えるはずの命を救える可能性確率も下がってしまう。社会的な富と資源が右肩下がりになった社会だからだ。 その点、みずからの自己をさらけ出すことを極度に恐れる、現代の先進国、特に日本の若者の処世というものは、 社会の適応に自然である。自らをさらけ出す、自分の得手をさらけ出すことは、むしろ、その人の固有のクセや弱みも許せなければならない。 それが、出来る余裕は、現代の若者にない。附和の中で試されるものは、互いの主張や激突ではなく、 自分を決して傷つけない安全保障感が確認できることである。 その点、得手を表に出し、自分を引き受けながら自分を主張できるということは、 いついかなる時、自分がどのように他者とかかわればいいのかという適切さを習得しているのか。 また、それを扱えるだけの衝動を抑制できているのか。 という問題である。その点、現代の日本の若者にとって、他者の存在を、対等に引き受ける事の条件は、まず最初に、。 自分の安全を保証する存在という点が第一に来る。 彼ら自身が、自らの得手や取り柄を主張することは、むしろ自分の安全を保障するのに、 不利な空間が、少なくとも若者同士のコミュニティの中で、生まれていることは間違いない。 それは、ネット上のコミュニケーションでも同じことであり、 自分を傷つける可能性があってもリスクを取って、自分の得手を伸ばそうとすることは、 若者にとって、おそるべき挑戦のようなのである。 気分よく、気持ちよく過ごせることが第一にあり、その点、附和という、自我が自分を支えてくれる、 仮想的な安心感を与えてくれる。 しかし、社会生活の中で決断と選択は否応なくやって来る。 人からどう思われるかを基準にしてきた彼らには、あまりに、自己責任の文字は重いのである。 自己責任の言葉が独り歩きして、個人主義を曲解して語られるのも、 彼らの安全保障感を授けてくれるはずのセーフティネットもいったん、自らのスモールコミュニティをでれば、 むき出しのエゴイズムがより、露骨にインターネット上含めて、蔓延するという、社会が毒された世界。 分かち合うことの困難さを、引き受けることを放棄した漂流する個と互いの安全保障だけをよりどころとした、 けして、個体の識別性を見せる事のない島宇宙の細分化、これが、現在の日本の精神生活を保障するよりどころとなっている。 その点、より強い従来のつながりであった、地縁、新・宗教コミュニティ。政党コミュニティと言ったものも、 すでに旧態依然のニ十世紀型の硬直化した古い器として、減少傾向にはどめがかからないというのが実情である。 アップトゥーデイトされていない組織は、若者たちにとって、住みよい居場所ではなく、 新たな居場所は極めて、個人をさらさない限り、互いを侵害しないという。相対化の極致をいったものとなっている。 それは、彼ら若者たちが望んでそうしていったのではなく、相対化することによって、自らの安全保障感を獲得するという、 彼らなりの生存競争の結果であり、引きこもりといった極端な例から、広く一般的な若者像として、流通している。 分かり合える人とだけ分かり合える。互いに自分自身を打ち解けない範囲で。 これが、現代日本若者像のローカルルールである。 このような状況下において、自らの得手を打ち出すこと、すなわち有利も不利もさらして、 自分自身であるということを見せつけるという行為が、あまりにドギツイ行為であることを、 実感として私は、経験している。 若者は、自己を傷つけることをいとわず、自己を向上されるという姿勢に対して異常なまでに畏縮を見せる。 それは、まるで、鬼神にでもあったか、異星人に会ったかのような印象を彼らに与えている。 昔の日本人の姿。自分自身であること。不安があってもそれを表にあらわさないこと。我慢すること耐える事。 真善美を求める事。真面目さを美徳とすること。 これらの古い人間像は、あまりの現代の若者に新鮮に映るようである。 そしてまた、そういう古い日本人の原画に強い憧憬を覚えながら、 それを言葉にするすべをどうやら、彼ら、若者たちは持っていないようなのである。 言葉の生き物として生きる事。時にぶつかり、分かり合い、新たな化学反応を起こす。 そのことに、彼らは強いアレルギーを、起こす。ある特殊な人々を除いては、 議論好きの人間たちに対して一般的に、拒絶的になることもむしろ、彼ら自身の附和で守られた自我を保つのに必要な作業だろう。 しかしながら、その附和の対症療法にも、あるいは、幼児期の無条件の生存の承認の獲得の失敗にも通じるが、 彼らは、極端に失敗を恐れる。 失敗することを赦されない成育歴を持つ若者の多さも、また特徴的である。 彼ら若者たちの親もまた、失敗を許されない成育歴を持つ親が多く、彼らの中には、特別な成功や、 宝くじのような一獲千金の幻覚の中に、幻の自己を見出すものもいる。 人間の個体の識別性は多様であり、親と子は確実に違う個体へと変化していく。 その個体が唯一持つそれぞれの物語に寄り添うことが、現代の親子間で難しい状況になることは間違いない。 親は子にすべてを捧げた。子は親の期待に応えることにすべてを捧げた。 そういう家族の物語と、親が子として持っていた物語と、子が親から離れて、見聞きして、作り上げた物語は異なっている。 その家族というもっとも小さな共同体さえ、同床異夢であるということの理解は難しく、親子間の癒着が見られる。 親子間の共依存は言うに及ばず、本来は、親と違う存在として、現れる、親離れのための彼氏彼女は、 あくまでもその若者にとって「優しい」存在として、必要とされ、共依存の親の代替物として扱われる。 パートナーに求められるものは、女性であればATM機能とやさしさ。男性であれば、同じ目的の場合もあろうが、 多くは、支配的な性の支配であろう。 すこやかさというテーマに対して、家族という最小の単位の共同体の対人関係の科学といいう見地から見た、 社会病理は、より、マクロな存在に適用可能である。 若者のカップル。オタクのコミュニティ。新たなネット上のコミュニティ。いずれも。すこやかな対人関係という見地を通してみれば、 依存癒着傾向が顕著である。本来、えさを取る動物に、癒着的なコミュニケーションはあまり必要はない。 発達課題の欠損を共依存と薄い共感で埋めることは、大いに現代的である。 家族という最小のコミュニティを、復権させるテーマに、古い人間像をもって来ることの眼目はそこにある。 当然、突然古い人間像を見せつけても、委縮を起こすだけである。現代の若者には、大いに、説明が必要である。 主語と述語と目的語をもってして、なぜ、今、この古い人間像があなたに対して、効き目があるのかということを、 厳然と知らしめる必要がある。 若者はその親の世代からすでに、他人とどうゆう風に関わればいいかという点において、対人関係の科学の点から失調している。 それは、核家族の中で異様な親子の接近癒着を引き起こし、親子間の識別を困難にさせている。 あなたと私は別の存在であるということ。そのことを認めることは、 対人関係の科学の中で最も基本的なテーマである。 だが、実際に家族という、特に核家族化された純粋に癒着依存の基底が出来上がり過ぎている状態で、 そのことを、実践することは案外難しいことである。 しかしながら、家族間の識別が生まれてこそ、より、外縁的なコミュニティでコミュニケーションを、求められたときも、 個体の識別が図られるということ。すなわち、自己と他者の関係をもう一人の他者が上空から眺めた時、問題なく、 二者間の識別が保たれている状態。あなたは、あなた。わたしは、わたし。そのことが、確実に保たれる状態。 その状態が心理的距離である。」 心理的距離なくして、21世紀に適切なコミュニケーション。すなわち、対人関係の科学を実践適用することはできない。 あなたと私は個別に識別された個体であるという認識を持つことは、簡単なようで難しい。 とくに人間は社会的動物である以上に、つがいで子を産み育てる。 子どもはほ乳類の中でもえさを取るまで長期間親の保護を必要とする。 つがいの役割は、父性、母性と分けられているが、 乳児期に子供は自分が、母と分離された個別の存在だとは認識できない。 その識別を生み出すのは、幼児期の無条件の母の愛というテーマ。 むしろ、自我の確立という思春期のテーマが、個別の識別を産むと思われがちだが、そうではない。 幼児期に保護者から、貴方は無条件で存在していいよという、メッセージを送られて初めて子供は、 自分が、親とは違うこと位であることを認識することができる。 その乳児期のテーマをテーマを埋められない、見捨てられ不安を持つ人間に持つことが難しいのが、 見捨てられないことへの渇望である。 彼らは、保護者から、なぶられるような成育歴を持つ人々である。 親の気に入るようなときは、とことん可愛いと愛着を注がれたけれども、 親の望むような子供の反応を示さない限り、子供として当たられるべき愛情を与えられなかったテーマを抱えている。 その無条件では生きてはいけない、甘えてはいけないのだという欠乏感が、彼らの他者との識別を困難にする。 彼らは、他者との心理的距離を図るという前に、まず愛されなかったという強烈な前提から始まっている。 それは、心の中のブラックホールのように、埋めても埋めても埋められない心の空虚さである。 その中で、思うことは、あなたはあなた、わたしはわたしではなく、私を助けてくれる味方のあなたか。 私を突き離そうというあなたかの二極化である。価値下げや脱価値化の中で、彼らは、自分の中の等身大の自分を見出すことを困難にしている。 あるものは資格の取得であったり、あるものは、極端なダイエットに挑み、自らの克己心や禁欲、高い精神性を証明しようとする。 しかし、それはいずれ、基礎のあやふやなまま、立ち消えとなってしまう挑戦になることが多い。 彼らの背景にある、幼少期にありのままの自分でいいと認めてくれなかった欠乏感への穴埋めは、あまりの代償の大きなものであり、 甘えることを赦されなかったことが彼らの中で、他者とのかかわりの中で依存形成を容易にしてしまう主因となる。 程度の差こそあれ、臨床の俎上に乗るかどうかは別として、多くの現代の若者が、親の期待や欲目と、自分が本当に、何を頑張る自分が好きなのかということを、 確認できないまま年齢を重ねてしまったことの、喪失感は大きい。 現代の若者を語る際に、アイデンティティを持て、自己肯定感を高めよ。自分らしく生きろと頭ごなしに求めたとしてもそれはかなりの無理を若者たちに強いてしまう。 まず、現代の親自体が、大いなる成果主義、結果を出さなければ何もしなかったことになるという、幻想に縛られている。 当然、欲のない親にそのような、親子関係が生まれることが相対的に少ないことは間違いないが、 欲が深い親ほど、また、子供に対して熱心であり、親はその親にまたされてきたように、我が子の幸せを自らの人生の自己実現と重ね、 すべてを、子どもの成功にささげてきた自負がある。 成果主義を満たせなかった子供の、栄光ある撤退として、挫折の後に、引きこもりを選んだとしても、 親は自分の子育てが間違っていたのかと絶望してしまう。 しかし、子供の気持ちは、決してそうではなく、親に対する申し訳なさでいっぱいなのである。 生まれてきてごめんなさいという言葉か、なぜ生んだという言葉で、反抗するように、 子どもは、自分の人生を引き受けることに拒絶を示し、ますます、外界からひきこもることになる。 ひきこもることは、自分は、いつでも、親に愛されなくても、社会で有能な何かを持っているという幼児的万能感を、 ひきこもる部屋の中で肥大化させて生きるようになる。 それは、着地点のない、目的地の見えない飛行を続ける事であり、決して現実的なおとしどころを見出すことはない。 その幼児的万能感は多くの若者の根源的な社会で不測の事態、自分にとって都合の悪い事態に遭遇した時に、自らを処すことのできない、 現代的なテーマである。栄光ある撤退。不戦勝の論理。失敗しなければ負けることはないものとしてのひきこもりの世界から、 社会人として、組織の中で社会の一線で働く時ですら、若者たちに蔓延するのは、幼児的万能感である。 それは、自分が何を得手として、頑張っていくのか、そういう自分を好きになれるのか。 そういう自分を認めてくれる仲間との関係性の中で切磋琢磨しているのか。 そして、そこから生まれる不安不満と自らが対峙で来ているのかという根源的な問いにぶち当たることになる。 それは、幼児的万能感を譲り渡すのもすなわち父性との出会いを示している。 一般に、幼児的万能感を譲り渡し、時分というものを引き受けるためには、手ごたえのある大人との出会いを必要とする。 すなわち、わかること、つよいこと、優しいことの三位一体をそろえた大人との出会いである。 これは、理想の親を意味している。 強いが優しくない大人。わかってくれるが強くない大人。優しいがわかってくれない人は、世の中に大勢いる。 その中で、子の三位一体をそろえた大人に出会うことで、初めて、若者はその幼児的万能感を譲り渡し、 世の中には、出来ることとできないことがあり、そのなかでも、何もできない人はいないということ。 そして、自分も何かできることをもって、自分を好きになれる誇りを持てるようなエピソードを抱えながら、 自分を引き受けて生きていくという、自我の確立に初めて参画できるようになる。 この場合のわかることとは、安易な感情移入や共感ではなく、きちんと、その若者自体の葛藤に寄り添えることを意味する。 優しいとは、その若者の痛みに敏感なことと同義であり。 強いとは、そのことを扱ったとしても、その大人が、不安や不満に押しつぶされることなく、壊れないということと同義である。 一般に、表面的な相槌を打つ人、逃げ腰の人。不安がる人は、相手に安全保障感を送り届けることはできない。 なにより、その大人自体が、手ごたえのある存在として、威圧的、断定的、高圧的、頭ごなしな態度を慎み、 分かろうとする姿勢を保つことが肝要であろう。 現代の若者の幼児的万能感は深刻である。 幼児的万能感を譲り渡せない若者は、自分の殻に閉じこもるか、他者とパーソナリティの核を通したコミュニケーションを取ることができない。 そこにあるのは、傷付けないこと、迷惑をかけないこと、痛みを与えないことといった、幼児的万能感にふれないような、 附和を作り出す微妙な距離感である。それは、一般に、識別された個人の心理的距離とは別種のものである。 あくまで、他者から見られている自分。他者から疎外されていない自分。他者の中でのけ者とならない自分をそれぞれの、 幼児的万能感の中で相対化しあう、ヤマアラシのジレンマである。その空間はある程度の熱気を持つこと決してなく、 自分のわかってほしい範囲だけわかってほしいという、自己防衛を極端に肥大化させた異形のコミュニケーションである。 ある意味、咀嚼の必要がなくなって顎を退化させた宇宙人のようないびつなコミュニケーションといえようか。 若者たちは、全共闘世代までのように、熱い処世論をかわすこともなく、自らの防衛線を守ることに必死である。 しかし、その防衛線自体、自我の成立とかけ離れた立場に置かれた線引きは、非常に若者自身にとっても不利な状況である。 前述の手ごたえのある大人、三位一体を兼ね備える父性とは、いわゆる昔の日本人の事である。 真善美、内面的にな道徳律に忠実だった父親像と言おうか。 子どもを枠づけルールの中で生きることを教える存在である。 この人にならという、理想化転移はまさにそのために存在し、 若者は、幼児期に譲り渡すはずだった幼児的万能感を、手ごたえのある大人に譲り渡すことで、 枠づけられることを覚え、ルールと秩序の中で生きることを覚えるようになる。 コミュニケーションのための我慢を教える事。 そのことが、父性に与えられた、ほぼ唯一の巨大なテーマと言っても過言ではない。 その時にしていいこと悪いこと、ルールの中で生きる事。秩序というものが存在すること。 そのことを、教える存在。 机にぶつかったとき、机が動かないのが悪いということ子どもに、 机は動かないという法則を教える存在である。 机が動かないのは、子供にとっては不条理であり、矛盾である。 しかし、その矛盾や理不尽自体を我慢してしまう、理想の親の存在を通じて、初めて、 若者は、対人関係の科学の世界の中で、衝動を抑制し枠の中で生きることを覚えることになる。 この社会契約説に似た、父性と幼児的万能感の契約は、 人間が作り出した神が、神を作り出した人間自体を縛り、自由を縛る代わりに人間に秩序を与え、 安全と安心を保証したという社会の構図と酷似している。 繰り返すが、人は社会的動物である。 利己的な個体が、そのまま生き続けられるほど、社会資源には余裕はない。 その己の欲せざるところ他人に施すなかれという、互恵的利他主義。 いわゆる、しっぺ返し戦略は長らく、ゲーム理論の世界で、最も強力なストラテジとして、君臨してきた。 そのことを、まず、子供に教える、若者に教えるということ。 そのことを放棄した、先人たちの罪は大きい。 その先人の代の事なかれ主義が、枠づける事を放棄した結果。 文明の質がどんどんと墜ちてゆく。 与えられたものしか、親として与えられないという現代の親世代からすでに、 現代的な発達課題の遅れと、文明の堕落退化という問題にすでに直面しており、 21世紀に入りその問題が大きな社会病理として、純粋化されて問題となっている。 それは、戦後民主主義言語空間というべきか、すべてが個人の自由をはき違える仲で、 子どもの権利にフォーカスするあまり、こどもの守るべきルールや秩序をおざなりにした、 戦後世代の系譜が、今まさに最終的な社会病理として表れているのである。 このなかで、リバースエンジニアリングとしての、昔の日本人、特に昔の父性を確かめるのは、 有効な検証作業である。日本精神と少年保護において、平田勲検察官が持っていた手ごたえを、 はたして、どれだけの父性が答えることができるか。 赤化転向学生も藪から棒に平田勲検察官に自らの発達課題の未熟を吐露したのではなく、 きちんとした、手ごたえのある回答があるという目算でもって、平田勲検察官に尋ねたことは間違いない。 オウム事件が起きた時、なぜ、あの高学歴が、カルトにとしか、報道できなかっあ浅薄さが、 戦後民主主義国家日本の喪失した父性の問題であり、また、無条件では子供を愛せない経歴をすでに持ってしまっている、 母親の悲劇でもある。 対人関係の科学はわかってくれる人二だけわかってくれればいいというオタク的コミュニケーションを目指すものではない。 分かり得ない人々が、いかに分かりあっていくか、世界を分かちあってていくかという、対人関係のプロセスを、 ダイナミズムと共に、解き明かしていくものである。 ミニマムなコミュニケーションのコミュニティである家族の復権から如何に、より大きなコミュニティの復権につなげていくか、 壮大な社会実験である。このテーマが、対人関係の科学という見地で広く討議されることを切に望むものである。